生きていく中では、「思い通りにならないな」と感じる瞬間が何度もあります。
子どもでも大人でも、それぞれの立場の中で小さな制限があって、思い通りにならない場面は日常のあちこちにあります。
ただ、その中でも、年齢を重ねるほどに「自分の気持ちをそのまま出すより、状況に合わせて抑える」場面が増えていくように感じます。
仕事でも家庭でも、人との関係の中でも、自分の気持ちだけでは進められないことが多く、日々の暮らしは調整の連続。抑えたほうがいい時もあれば、そうしないほうがいい時もある。そのさじ加減が本当に難しいなと感じます。

子どものイタズラを受け止められなかった後悔
普段なら笑って流せるような小さなことに、なぜかものすごくイライラしてしまう日があります。
例えば、子どものちょっとしたイタズラ。 子どもにしてみれば「お母さんを笑わせたい」「面白いと思ってやった」だけ。だいたいのイタズラは、そんな純粋な気持ちから生まれています。
心に余裕をもって、笑って受け止めてあげられたらいいのですが、仕事で疲れていたり、時間に追われていたりすると、つい余裕をなくして本気で怒ってしまう。
子どもはびっくりして泣き、その声にさらにこちらのイライラが煽られる。 「本当は笑ってあげたかったのに」と、後からひとりで落ち込む。
感情をぶつけ合ってもしんどくなるだけだと分かっているのに、上手くいかない日のほうが多かったなと、今振り返って思います。
相槌を打たない理由
大人同士の人間関係でも、同じようなモヤモヤに出会うことがあります。 特に困るのが、誰かの愚痴や不満が延々と続く場に居合わせてしまったとき。
以前の私は、「大人の付き合いだから」と思って、話を合わせて相槌を打っていました。 でも、ネガティブな言葉を浴び続けていると、自分の元気がどんどん吸い取られていくような感覚になる。
軽く相槌を打つだけでも、その場の空気の“仲間”になってしまう気がして、 今は無理に合わせず、そっと距離を置くようにしています。 悪口の場には居座らず、静かにその場を離れる。 それが、私なりの「引き際」です。
口にするということは、もう一度思い出すということ
もちろん、私の中にも愚痴はあります。 言葉にして吐き出せば、その瞬間だけはすっきりするのかもしれません。
でも私は、嫌な出来事をもう一度思い出したくない。 言葉にするということは、その記憶をもう一度頭で考え直すことになります。 せっかく終わったはずの嫌な出来事を、自分の口から再現して、自分で自分を傷つけるようなことはしたくないのです。
だから私は、できるだけ愚痴を口にしないようにしています。 愚痴を言えば一瞬すっきりするんだけどね。 その代わりに、私は温泉に行ったり、いつもよりゆっくりお茶を淹れたりして、 心をリセットする時間をつくるようにしています。
日常のいろいろな場面で、「いい顔」をしてしまう理由
それでもなぜ、私はそこまでして波風を立てないように先回りしてしまうのか。 考えてみると、ひとつの答えに行き着きました。
私は本当、自分より“人から良く見られたい”んだと思う。
子どもの前で怒らないようにすることも、店員さんに愛想よくすることも、悪口の場からそっと離れることも。 振り返れば、どれも「良い自分でいたい」という気持ちが根っこにある。
人から良く見られたいからこそ、いろんな場面で気を張って、知らないうちに自分に我慢をさせてしまう。 そんな自分に気づくたび、毎日の我慢の多さに少し戸惑ったりします。
ペットの話題でその場を離れる

そんなふうに、愛想よくがんばることに疲れてしまった私は、最近ひとつの工夫をしています。 悪口の空気を感じたら、そっと話題を変えて、その場から離れることです。
一番使いやすくて、誰も嫌な気持ちにならないのが「ペットの話題」です。
「そういえば、うちの犬がね……」 「最近、可愛い猫の動画を見つけて」
動物の話をしていて悪口に発展することはまずありません。 だいたいは「可愛いね」「癒やされるね」という穏やかな空気に変わります。
相手を変えることはできないけれど、自分が立つ場所の空気を少しだけ変えてみる。 それは、相手を否定するのではなく、自分を守るための小さな「引き際」なのだと思います。
……と、こんなふうに書いてはいるけれど
もちろんすべてが完璧にできているわけじゃありません。 むしろ、“こうなれたらいいな”という私の理想も半分くらい入っています。 できない日もあるし、うまくいかない日だってたくさんあります。
それでも、試行錯誤しながら、少しずつ自分を軽くしていけたらいいなと思っています。

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